昭和44年03月16日 朝の御理解



 御理解 第88節
 「昔から、親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである。」

 これはこの通りに頂いたら、これは御理解というよりも普通一般に思うたり言うたりしておる事ですよね。それは信心のない者でもここんところは分かります。ですからこれは御理解として頂くということは、だからそういう通り一遍の事ではないと思うんですよね。心に辛い悲しいと思う時、鏡を立てて、悪い顔を人に見せぬようにしてと、家を治めよとこういう。
 昨日の朝の御理解、神の綱が切れたと言うが、神からは切らん氏子から切るなという、あの御理解でしたね。けれども私共がこうやって日々生活させて頂いております、その間には様々な事があります。なるほど神様の有り難さも分かり、信心も段々分からせて頂くのでございますから、神の綱を外すどころかいよいよ神様に縋らなければおられないと、いうことになるのでございますけれども。
 本当にあのう神様も仏様からも、見放されたのではなかろうかと思うような時がある。離しはしませんよね。離しはせんけれどもね、それこそもう神の綱が切れたのではなかろうかと思うような事がある。言うならばここで辛い悲しい思いをしなければならない時がある。そういう時にいわゆる鏡を立てなければいけないと思う。日頃頂いておる教えという鏡を立てさせて頂かなきゃならんと思う。そしてそれこそ心の隅々にまで鏡に照らし合わせて、いよいよ自分というものを見極めて行かなければならないと思う。
 最後のところに家を治めよとこう言うておられるところでも、家をもちろん治める事なのですけれども。先ずですから鏡を立てて自分の心を治めよということだと思う。自分の心を治める。そこから私はまた新たな道が開けて来る。今日は十六日ここでは総会が開かれます。それがちょうど久留米地区の信徒集会の日に一緒になりましたから、まぁあちらに行かねばなりませんし。
 ですから皆んなこちらから貸し切りバスで、又は自家用車で皆んな行くように致しております。でそのことについて昨日私久留米に歯医者に通うておりますから、その向こうの総代さんであります、播磨さんにもお会いしたい。それから親先生にもお会いしたいと思うて電話をかけて頂きましたら、ちょうど親先生も久留米の方へ見えておると言うし、はりまさんもおられると言うので、あちらへ送って頂きまして参りました。
 ちょうど昨日はあちらのお月次祭でございました。ちょうどお月次祭の始まろうとする三十分ばっかり前に参りました。で親先生のお車が親先生の車でございましたところへ参りましたら幸いそこに播磨さんと親先生と、親奥さんとおられましたから。まぁ今日のこと色々の打ち合わせをさせて頂く積りで参りました。ところが以外な事をまぁ聞かせて頂いたんです。まぁ本当にあのう物事のひとつの間違いというか、思い違いというか、このうというのははぁこんな風にして起こって来るんだなぁと私は思ったんです。
 播磨さんもそうでしたし、だからそれはまぁ申す事は私の思いを申しましたんですけれども、まぁ行って良かったとこう思ったんです。それがそのう親先生があのう、ここの御信者さんがちょっとした事を言うた事が、播磨さんの口から親先生に行ってる訳です。でその事がもう私のもう顔を見るなりに、親先生が仰るんですよ。なるほど言われてみるとそう言うておる事だけは間違いない。あんまりこう険悪になりましたから、播磨さんが横から言われるんです。
 そのうそれもうちのこの大祭の日にちの変更の事でございましたけれども。播磨さんが先日杷木の教会で、秋永先生始め総代さん方に話された事が、まぁ大祭の日にちを変更されたらどうか、ということだったらしいんです。そん時にある総代さんが、私どんは絶対出来んばのとこう言うたとこう言うのです。だからその絶対ということはどういうことかとこう言う訳なんですよね。金光様のご信心を頂いて絶対ということはないと言うて、その事を一番に言われるんです。
 ところが私もその言うた事を知ってるんです、絶対て言うた事を。と言うてそれからその堤さんが言われるのに、じゃない堤さんじゃないご無礼しました。その播磨さんが言われるのに、いいえそれはあのう笑うちから言いなさったっでございますてこう言う訳。まぁ言うなら冗談を半分のようにして言われたっでございますと言うて、播磨さんが横からまぁ助け船を出して下さったんですけれどもです。さぁこれが二人に伝わり三人目に伝わる時にはですね、やっぱり絶対と言うた事になる訳ですよ。
 そん時の雰囲気ならですねそういうことじゃなかったんですきっと。いっちょ考えち見てくれんの私共の気持ちにもなって見てくれんのと。だからもう本当に私共の十六日という日は、もう本当に神ながらな日で、もう二十年近くお祭りを頂いておるが、これこそ一遍でんお湿りのあった日はなか。もう恐らくずうっと合楽の十六日の御大祭という十六日という日は、もうずうっとお湿りがない事になっとる程に、神ながらな日としておかげを受けておる日ですから。
 それはもう信者は一同親先生を始めです、もう随神な日として頂いておりますとじゃから、そう一遍に言われてもとても出けるこっじゃない、と言う様な事を段々話したんですよねきっと。秋永先生もおりましたから、もっとそうですから先生が言うとるはずです。ただそのところがそのそこんとこだけを、えらい剣幕で、その絶対出けんち言いましたよち言ってから、まぁ言ってるらしいんですよ。ですからそのう本当にこのう、よくよく考えなければならない事でございますけれどもね。
 例えばそこではそうでもないけれども、二人目になり三人目になる時には、それに枝がついたり葉がついたり、そしてその雰囲気までそのう段々その時の雰囲気とは全然あん時に、ほんにあぁ言う様な事であんな事じゃったっじゃけん、そん時に全然問題でなかった事が問題になって行くのでございますから。けれども心して言葉というものは、いわばそれこそ発言しなければいけないなと思いますね。いわゆるあの実意丁寧、実意な言葉、実意な態度、実意な心と言う様な事を、私家族の上にいつも申しますけれども。
 なかなか実行できません。実意な言葉ということ実意な態度ということね。もちろんその実意な心がなからなければ出来ませんけれども、もう本当に私を始めもう合楽ではその辺が非常にろくそなかです。ほんのわが気持ちのように言うてものは言うんです。ですからそれが相手だけの時までなら良いけれども、それが相手のまた向こうの相手になって来る時には、それが意味の違ったものになってしまっておる。ということがなら親先生の気分に合わないというような、何て言うかね心にかなわん。
 そげなこつ言うたのと言った様な事にまで成り兼ねていないのにですね、私は改めて私は自分を思うてみました。総代さんが言うたということは、もういわば私が言うたも同じ事。これは例えば総ての事が責任を取らねばならんと言うなら、やはり子供の責任は親の責任として、これは追求されるのが当たり前でございますから。ただあんたの教導のしようが悪かけんというだけでは済まされんて。そう言う様な事が例えば合楽の場合にはいつの場合でも、問題の元になっておる様な事もあろうかと私は思うて。
 まぁそれこそまぁ昨日私の元気な心というか有り難い心というか。もう一切を有り難いね有り難いで払うということ。有り難いで消していく。そういう例えば思いでございましたから、まぁまぁおかげを頂いたんですけれども。やはりあんまりもう面くらったもんですから、ちょっと咄嗟にちょっとよろよろしたような感じです。けれどもまぁ聞くだけ聞いてから、その実は今日その事でこうこうで参りましたと。
 ですからもう今日は総会でございますから、こちらの久留米のあれが終わったら、もう途中で信者にもはかって、どうでもその親先生にその大祭の日にちを決めて頂こうと言うて実は今日は参ったっでございます、と私が申しましたから、あただにその雰囲気が変わってですね、まぁ参りましたけれども。はぁ本当にこれは猛反省。いわゆる私は鏡を自分の心ね教えの鏡をですね、いよいよ立てさせて頂いたら、これは誰々総代じゃないこれは私だとこう思わせてもらいました。
 でその事からずうっと思うてみますとですね、本当にもう反省しなければならない事に驚きます。こんな事が人にこんな不愉快な思いを据えたり、人に誤解を招いたりするような元になっておるかと思うたら、これは本当に実意な心と同時に実意な態度、言葉というものがどんなに必要かということを私は感じました。これはどうも私の系統ですからね、皆さんもやっぱり、そこんところを大いに心をしておかなければ、それが大変なあのう間違いがあるようで、大変ないわばおかげ落としの元になりますからね。
 もう私はもうこれを思うたら、もう何か身がゾッとしました。はぁこんな事がですね間違いの元ならいいけれども、おかげ落としのもとになるのですから。それはもう自分の心というものを段々だんだん、深く広くこう鏡を立てて見せて頂いておったらそれをそう感じた。まぁそこで私がこう思うんですが、今日も久留米にお参りさせてもらいまして、まぁ他所の御信者方の体験発表を聞かせてもらい、また同時に今日は鹿児島の行徳先生の御講話を頂く事になっとります。まぁ三時までぐらいはかかるでしょう。
 ですからその聞かせて頂くこちらの姿勢と言った様なもの、態度と言った様なものもです、やっぱり沢山の合楽から参りますから。やはり実意な心と同時に実意な態度をもってたくさんていうか、十何ヶ所の教会の者が全部集まりますから、とらなければとらなくても、合楽は目をつけられておるような感じですから、おかげを受けなければならんという事と同時にです、お話の中に様々なお話が出る事でございましょう。そしてよし合楽の信心をもう一遍見極めよう。
 他所の人達の信心他所の人達のお話を聞いて、そして私共が頂いておる信心又はおかげというものを、もう一遍見極めさせてもらおう。今日のここんところ辛いとか悲しいと思う時にとこう言う。まぁ人間一生の内には様々な辛い悲しい思いをする事がありますけれども。それを不思議にね有り難、または元気な心で、それこそ矢でも鉄砲でも持って来いと言った様な気持ちで、スーッと受け抜いて行ける時もありますね。けれども今日私一番に申しますように、もう神も仏もないのじゃろうか。
 それこそ神の綱が切れたのじゃなかろうかと思うような時、神が切った離しはせん。離しはせんけれどもですね、神の綱が切れたのじゃなかろうかと思うような時です、元気な心が有り難い心と言う様なものが分かるなら、私はどういうことになるかと言うと、鏡を立ててみて自分というものを本気で見極めさせてもろうてです。そういう辛い苦しいというところをです、改まって抜けなければいけないということです。改まってその節を乗り切れなければいけないということです。
 改まってというのはです、そういう時にです本気で例えば大坪聡一郎改まれよと神様が言うておられる時なんですから、元気な心で有り難い心でそこをスーッと、もうそれこそ勢いを持って乗り切らせて頂く時はまた別と。けれどもやはり様々な時があります。同じ事柄であってもです、こちらの気分一つではですそれが寂しかったり悲しかったりすることがあります。それこそ神の綱が切れたのじゃなかろうかと、いわば思うような時があります。だからそういう時には鏡を立ててです今日の御理解。
 鏡を立て教えの鏡を立てて、自分というものを本気で見極めて、はぁこれじゃなるほどこういう問題が起こるはずだ、こういう不愉快な嫌な思いを皆にさせよるんだなということをです、本気でぎりぎり見極めさせてもらって。これからは決してこういうことは言わんぞせんぞと言った様な、何んかそこに改まりというものがです出来る。その改まりをもって、その節を抜け切らせて頂くおかげ。ただそのところをですね、まぁしだごだでですね、ただ神様が神の綱が切れたのじゃなかろうかと言う様なです。
 辛い悲しい思いをしながらそこを通り越さなければいけませんです。いつか頂いたんですけど、その節が横の方へこう出て来て、あのうこういぶしこぶしのなのがあのう事が出来ましょう。あのように木に穴がほげるようなね。あぁいうことになるという。ただ苦しいなりに苦しい苦しい、悲しい悲しい寂しい寂しいだけで通り超えただけではですよ、そういうことになる。ただここんところを真っ直ぐスーッと元気な心でですね、それこそ節を元気な心で受けて行く人は伸びると。必ず伸びる。
 ところがさぁなら私共はです、その元気な心ばかり次は元気じゃいかんのですからね。心から有り難いもの。いわば心から湧いてくるもの。それこそ矢でも鉄砲でも持って来いと言う様な時もあるけれども、でない時もあるということ。だからそういう時には、ひとつをお互い立てさせて頂いてです、そこをひとつね素直になる。改まってここに信びる。改まってこの節を抜け切る。必ずその向こうには有り難いものが待っております。だからその節を乗り切るのに、三つの乗り切り方がある訳ですね。
 元気な心で乗り切るということと、又は改まってそこを乗り切る事とね、ただ苦しいなりにそこをどうやらこうやらしだごだでね、それこそ神様を外しゃきらん。やはり神様にお縋りをしながら皆んなそこを乗り切るのと、三つの乗り切り方がある。だからこの乗り切り方の中にです、どうでも私が思うのは元気な心で乗り切らなきゃならんけれども、今日の場合はですね、鏡を立てて人に悪い顔を見せぬようにと仰るのですから、今日のところはだからそういう場合、改まってそこを乗り切らせてもらおうと。
 鏡を立ててみて自分の汚れておるところを洗い清めて行こうと。汚れておるところを破れておるところをですね、そこを縫い繕いさせて頂いてそこを乗り切らせて頂こうと。昨日私はそのお取次ぎをさせてもらいよりましたら、その方が米俵をその間代に行ったんですね。行って米俵を担げて半俵ぐらい入ったとを担げて行きよりますもん。そしたらあのう穴がほげとるとに、ワラがこうやって突っ込んじゃりますもん、その破れたところへ。だからちょいと漏らじゃったです。
 してこうこうやって動きよったらこう段々出てきてからすとっと落ちた。そっからずうっとその米が漏って行きよるとですもんずうっと。はぁこの人はいっちょん自分の心の破れていうものを知ってはおる。けれどもちょいとワラで詰めたごたる事をしとる。なるほどこれじゃまたそん時はもらんばってん、一時抱えて行きよるとこれじゃ少のうなって行きよるはずだと、私は思ってですねまぁその事をまぁちょっとヒントだけ与えておきましたんですけれどもね。
 お互いがその改まると言うても、その様な程度の改まりじゃいけない事。そこをやっぱり完璧に縫い繕うとかにゃいかん。ほんにあぁいう辛い悲しい思いをした時に、あの事だけは改まりが出けたと言った様なものがね、なからにゃいけません。今日私はそこんところをですねひとつ頂きたい。同時に今日の総会と久留米での信徒集会に望ませて貰って、そういうところをです、まぁ他所のご信者さん方の話を聞かせてもろうて、合楽で日頃頂いておる教えというものを思うて、自分達のいわばおかげを受けておる事。
 また合楽なら合楽の改まって行かなきゃならないところ。同時にそういう風にではなくても、私を始め、どうも人に刺激を与えれるいわゆる内容を持っておりますから、いよいよ実意な心を持って、同時に実意な態度実意な言葉という、そこんところにです焦点を今日置かせてもろうて。はぁあの話は元気な心で抜け切った人の話だなと。あの話は改まって元気なところある節を乗り越えた人だなと。
 はぁこの人はただおかげ話をしござるけれども、ただやっとかっとそこ泣く泣くそこば通らせたばっかりばいなと言った様な、色んな形があろうと思います。ですからそこんところをです、どうでも最近私が申します事は、どのような事柄の場合であっても、それをですね力にしたいそれをお徳にしたい。だからおかげをただ受けるというだけならこの程度の信心でいい。けれどもお徳を受けるて言うなら、ここんところをおかげを頂くでなからなければならない、ち言った様な事を私が申しておりますがね。
 毎日それはその事ばかりを申しておるような訳ですけれども。おかげを頂かせてもらい、お互いがひとつ大きな字を書こうと思やね、沢山やっぱりあの黒ろうの墨がすり溜められとかなければ大きな字は書けません。大きな筆ばっかり持っとったっちゃ出けません。大きな心ばっかり持ったって出来ん。大きな事ばっかり願うとったって、肝心要の時に墨がすり溜められておかなければ。いわばそういう修行をし溜めておかなければです、いよいよの時に大きな字は書けません。
 ここんところの道理も分からせてもろうて、様々な時をまぁ願わくば、有り難く元気な心でと言うのですけれども、人間そうとばっかりいけない事もある。一遍にそれこそシュンとこう水をかけられるような思いをするような事」もある。そういう時にです本気で自分の前に日頃の教えの鏡を立てさせてもろうて、それこそそこを黙してね、黙ってね改まってそこを抜け切ろう。今日はそこんところにひとつ焦点を置いておかげを頂きたいと思いますね。
   どうぞ。